ペルーで失敗した、「Alfajores/アルファフォーレス」取材にリベンジ!
【day】30〜31日目
【route】アスンシオン
前回の「旅の日記」に綴ったとおり、パラグアイは首都アスンシオンに到着した私たち。
ボリビアの旅はなかなか過酷で、疲弊していたけど、そんな私たちが救ってくれたのが、「ペンション・アミスタ/PENSION AMISTAD」。
ご主人は、日本人夫婦。…ですがこの宿、よくありがちな、ゲストハウスをオープンするために海外移住した日本人が経営する、いわゆる“日本人宿”の類ではありません。
約50年前に、それぞれのご両親と共にパラグアイに入植された、日本人移住者のご夫婦が経営する宿なのです。
ペルー滞在時に学んだ、南米の日本人移住者のこと。
※そのときの記事は↓コチラ
“日系ペルー人” を、夫婦で考えてみた
その歴史に非常に興味を持っていた私たちは、お二人から、実体験に基づいたパラグアイにおけるその壮絶な歴史を、じっくり聞かせて頂いたのでした。
鹿児島出身のお二人は、お母さんが1959年に、 お父さんは1967年に、それぞれパラグアイに到着。
そもそも到着までの道のりが壮絶で、まずは鹿児島から神戸港へと向かい、そこからさらに横浜港へ移動。ここからようやく大型船で出航、太平洋を渡って一路アメリカはロサンゼルスへ。
その後さらに、あの有名なパナマ運河を通って、アルゼンチンはブエノスアイレスに到着。ここで船旅を終え、内陸国であるパラグアイへは鉄道で移動し、ようやく到着。
現代では日本→パラグアイへは飛行機で24時間~30時間程度の道のりですが、当時は所要約2ヶ月!
しかも当時まだ、お父さんは高校生、お母さんは小学生だったというのだから、それだけで、日本人移住者がどれだけ決死の覚悟でやって来たかということがわかります。
私たちにとってはそのストーリーだけでも衝撃的でしたが、到着後には原生林を切り拓いた土地で暮らしたり…などなど、貴重な日本人移住者の入植時の実体験を聞かせて頂いたのでした(詳しくは、またSWEETS TRAVEL BOOKにまとめます)。
そしてお話を聞いたのは、日本人移住者の歴史だけではありません。
言語の問題で、パラグアイ人にはなかなか質問することの難しい内容まで、パラグアイの文化や暮らしついて、詳しく教えて頂きました。
その中で、もちろんパラグアイの郷土菓子にも話題はのぼります。
・・・すると、なんとなんと!!
ペルーでは取材失敗に終わった「Alfajores/アルファフォーレス」。お母さんが、お子さんたちのオヤツとして、昔からよく作っていたということが判明!
※「アルファフォーレス」の詳細は↓コチラ
*郷土菓子メモ* ペルーの「Alfajores/アルファフォーレス」
※ペルーでの取材の様子は↓コチラ
“アポなし突撃取材” 目指せ!現地で郷土菓子作り
転勤者やリタイア後に移住した日本人に、現地の郷土菓子について教わるのだとしたら、それは違うでしょ…って話ですが、こちらのご夫婦は少年少女時代から、パラグアイの歴史と共に生き抜いてきた方々。言語の問題も含めて、先生としてこれほど最適な人はいません。
かくしてこのチャンスを逃すまいと、厚かましいのは承知の上でグイグイと、郷土菓子レッスンのお願いをした私たち。
…すると、嫌な顔ひとつせず、快く引き受けてくれましたーーー!
うれしいことに、材料の買い出しまで一緒に付き添ってくれ、
「Alfajores/アルファフォーレス」はもちろん、おまけに「Pasta frola/パスタ・フローラ」という郷土菓子まで一緒に作らせてくれました!
お忙しいのにもかかわらず、実質丸一日、私たちのために時間を割いてくれたお母さん…感謝の言葉もありません、、、
例のごとく、一緒に作らせてもらった様子を、チラ見せ。
郷土菓子の歴史はもちろん、キッチンで一緒に過ごしたからこそ、なかなか聞けるチャンスのない、日本人移住者としてパラグアイに生きるということ、その意味や覚悟も聞かせて頂くことができたのでした。
この取材の詳細は近日中に、夫が誌面(SWEETS TRAVEL BOOK)にまとめますので、どうぞお楽しみに♪
現地で郷土菓子を作らせてもらう際の反省点
● 取材させてもらえるのは、パティスリーなどお店だけとは限らない…ということを認識しておく
● 南米では特に、日本人移住者の方々に協力を仰ぐのは非常に有効!
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*世界一周の旅を経て、
お菓子ブランドをスタート!
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