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私たちの先輩は、いつ、なんのために、地球の裏側に移住したのか?


前回の「旅の日記」では、ペルー日系人協会が運営する診療所「日秘総合診療所/POLICLINICO PERUANO JAPONES」で、妻が受診したことについて綴りました。

日系人スタッフの方がいて、簡単な日本語での会話もできたため、それはもうとっても助かったわけですが、なぜこんなにも充実した日系の診療所が、地球の裏側のペルーにあるのか、みなさんはご存知ですか?


病院での受付から診療までの待ち時間が4時間もあったので(苦笑)、その間に、併設されている日秘文化会館内の「日本人移住史資料館」 を訪ねた私たち。

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ペルーに日系人の方が多いことはもちろん知っていたのですが、ここでは日系ペルー人の「移住の歴史」について、とってもよく知ることができたのでした。


ごくごく一般的な“日系ペルー人”の定義は、「日本人の子孫のペルー人」。私たちの知るところでは、世界初の日系大統領となったアルベルト・フジモリ氏が、最も有名な日系ペルー人ですね。

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では日本人は、いつ、なんのために、地球の裏側にあるペルーに移住することになったのか? 恥ずかしながら、その歴史をきちんと認識していなかった私たちなのでした。
 

1868年、明治維新後の日本は“サムライ”の時代が終焉を迎え、官僚政治社会・教育機関での予算額が上昇。そこで多額の税金を強いられ、しわ寄せを一手に引き受けることとなってしまったのが、農業従事者でした。

そして彼らの多くは所有地を売却する嵌めとなり、よりよい収入を求め国外へと出稼ぎ移住することに。

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移住者の竹製スーツケース。驚くほど小さい!/日本人移住史資料館 蔵


当初はアメリカ合衆国やカナダへの移住が進みましたが、徐々に現地での反日本人運動が高まり、日本側の移住取り扱い会社は矛先を急遽変更。

当時、アジア人の農耕従事者に多大な関心を持っていたブラジル、そしてペルーへの移住が新たに企画されたのだそうです。


そういった経緯を踏まえ、1873年にはペルーは南米諸国の中で日本と一番初めに国交を樹立。1899年には、いよいよ日本人の集団移住が始まりました。

しかし当然、今日のように飛行機で20時間ほどでペルーに行くことなどできません。約1ヶ月の船旅を経てようやく辿り着く、命がけの渡航です。

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ペルー移住のために、1899年に発行されたパスポート /日本人移住史資料館 蔵

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1925年に発行されたパスポート。なんと、3人家族に一つ! /日本人移住史資料館 蔵


到着したら到着したで、待ち受けているのは劣悪な労働環境に人種差別、そして風土病被害。この過酷な環境下で、多くの日本人が命を落としていったそうです。

しかしペルーへの移民事業は続き、1923年に移民契約が廃止されるまで、約1万7000人もの日本人がペルーへ移住することとなったのだとか。


そういった状況下で日本人たちはコミュニティを作り、ペルー社会の中で在留邦人の地位を地道に獲得しながら、日系2世の世代ですでに大統領を輩出するまでに至ったのでした。

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1908年に設立された、ペルーで最初の日本人学校 /日本人移住史資料館 蔵


フジモリ元大統領は結果失脚、日本へ亡命、現在はペルーで服役中という、最悪の幕引きとなってしまったのは事実です。

それでもやはり、今から約140年前にペルーへと渡った日本人たちが、文字どおり血と汗と涙で“生きる場所”を創ってきた努力に対する尊敬は、変わることはありません。…と、私たちは思っています。

「菓子」という項目もあり、ひょっとしたらパティシエもいたのかも…

「菓子商」という項目もあり、ひょっとしたらパティシエもいたのかも…


ちょっと拡大解釈しすぎかもしれませんが、今回のように私たちがこうして地球の裏側を訪ね、なによりも心の安心の下に医療を受けられたことが、故郷の先人たちが積み上げてきた努力の上にあると思うと、深い感謝の念を抱かざるを得ないのであります。


郷土菓子とは全く関係がないことはもちろん、もはや日記でもありませんが、どうしてもこの学びと感謝をどこかに留めておきたく、ここに綴ってしまったのでした。

不勉強故、表現に不備があった際は、どうかご容赦下さいませ。

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